ここもロクの小屋
今朝の朝刊
愉快な日常の話ではありませんが。
今朝の読売新聞に載っていた記事で、フィギュアスケートの「大技か完成度か」という議論に関する話がありました。プルシェンコ選手は四回転を、浅田選手は三回転半を決めたけど、ミスもあって及ばず…という内容で、スケートはジャンプだけじゃないとか、評価点が重要だとか、そんなことをつらつら並べただけの記事でいったい何が言いたいのか伝わってこない取るにたらないものだったわけですが、どうしてフィギュアのこの問題に関する記事ってどれもこれも取るにたらないものなんでしょうかね。もっと突っ込んで何が問題なのかちゃんと書いてよ。大技か完成度か? そんなんじゃないよ。なんつーかこう、問題点がずれてる。
プルシェンコ選手は確かに四回転にこだわっています。が、それは四回転を跳べば誰でも勝てるようにしろって話じゃないでしょ? スケートはジャンプだけじゃない? 重要なのは完成度だ? そんなこと誰に言われなくたってプルシェンコ選手はわかってる。今よりもっとジャンプが楽々跳べた時代に、それでも勝てないっていう目にあってきた人だよ。四回転跳びさえすれば勝てるなんてそんなぬるいこと考えるような戦歴じゃないよ。プル様なめんな。
プルシェンコ選手の四回転へのこだわりというのは、オリンピックの金メダリストという全選手の頂点に立ちたいのであれば、四回転という最高の技「も」入れるべきだという話。その上でプログラム全体を高い水準にもってこいって言ってるんだよ。
ノーミスでまとめた方が勝ちっていうのは確かにもっともらしく聞こえます。だけど、たとえば補助輪付きの自転車で転ばずに100m走ったのと、一輪車の綱渡り100mで失敗するのと同じ地平に並べて議論していいの?
先に「ノーミス」の「完成度」を目指してしまうのなら、プログラムの難易度を下げた方が簡単に決まってる。四回転を回避。3回転-3回転を回避。そうしてジャンプの難易度下げて、自分の得意な技だけにして、ステップやスピンも体力消耗しないものを選んで、そうして体力を温存すれば、きれいなジャンプが跳べるのもミスをしないのも一流のアスリートなら当たり前。そんなふうにして評価点を稼げば優勝? そんなのスポーツじゃないだろ。
プルシェンコ選手が憂いているのは、フィギュア界のそうした現状であり、それを許しているルールに対する抗議をしているのです。
アスリートなら、限界ぎりぎりのところまで力をふりしぼれ。そうして全員がそれぞれ自分にできる最高の力を出し切ったところで競って頂点を決めよう。彼はそう言いたいだけなのだと思います。
プルシェンコ選手が全盛の頃って、男子なら4回転2回は決めてかないと勝てませんでしたからね。女子でもスルツカヤ選手は3-3-2とか跳んでたし。そうした大技のない人は例えば5種類のジャンプ全部決めるとか、スパイラルなら誰にも負けないとか、キャンデ・ロロ選手みたいに個性を超アピールとか、もうね、とにかく全力って雰囲気がどの試合を見ていてもしていたものですよ。
でも今は「回避の方がかしこい」みたいな流れになっているのがとても残念。
大技か完成度かってどうして二者択一なの? 大技も完成度も両方。それを目指さなければフィギュアはスポーツとしてだめになる。四回転を跳ばなくなったら終わりだと言うプルシェンコ選手の言葉はそこが言いたいんじゃないの?
大技入れたって他を失敗したり、あるいは手抜きプログラムにしたりしたら、勝てないのは当然。でも最初からノーミス最優先でプログラムを組むのはスポーツとして堕落だ。四回転がなくても、それに勝る何かで勝負するのはもちろんありですけど、その何かが単なる「ノーミス」ってのは寂しすぎるでしょ。
今回の金メダリストがそれに値しないとは私は思っていませんよ。彼らがやりとげたのは「単なるノーミス」などではないと思っています。彼らは自分にできる最高の演技を見せました。そしてそれに結果がついてきた。バンクーバーの金メダルは二人が持っていればいいと思います。
ただね、今のルールだと、楽な方に流れた方が点が出やすいってのはどうなのよと思うわけですよ。
例えば、浅田選手がノーミスの完成度を優先して、トリプルアクセルを跳ばなくなって、ステップなどもスカスカにして、それで勝ったとき、ファンは心からの喝采を贈れるのでしょうか?
浅田選手の演技が感動を呼ぶのは、彼女が常に最高を目指して努力し続けるからではないでしょうか。自分にできる最高のものをと常に前向きな姿に私たちは心を打たれるのではないでしょうか。
四回転を跳んだのにトリプルアクセルを跳んだのに金じゃないのはおかしい。
今のフィギュアの問題はそんな単純なもんじゃないと思いますけどね。それなのに、今回の金銀の結果を単純に「大技対完成度」とまとめる論調が多いのにがっかりします。