『仏教が好き!』 河合隼雄×中沢新一
自分の中の仏教ブームが冷めないうちに色々読んでおこうとさらに仏教本。
心理療法に携わる河合さんと宗教研究家にしてチベット仏教の修行を続けている中沢さんの対談集。仏教の信者とか僧侶というのではなくて、仏教の思想に興味を持ち、それに共鳴する二人という立場で、仏教を他の宗教や哲学と比較したりしながら掘り下げています。
タイトルがやわらかい雰囲気なのと、前書きの所で河合さんが、これは私が中沢さんに仏教について教えてもらっている講義の内容を本にしたもので、これほどわかりやすい形で仏教の本質が語られることはないと思うというようなことを書いているので、易しい本なのかと思ったら、大間違いでした。
初っ端から「エラノス会議」だの「メタ宗教」だの「唯一神をもつ宗教は人間と神の間が絶対的な非対称」で「仏教は対象的な関係が前面にでて」といった言葉や、あるいはユングとかストロースとか井筒とか世界の思想家の名前とその考えを持ち出して仏教を語るので、哲学や宗教に対する知識のない私はぽかーんとしてついていけませんでした。
ユングとかデカルトとかフロイトなんて名前しか知らないので、その考えが仏教と似ているとか合わないとか言われたってわかりません。自らの浅学を恥じるばかりです。
それでもがんばって読み進めてみたところ、確かに「わかりやすい形で仏教の本質を語っているんだ」ということが見えてきました。デカルトだのハイデッガーだのといったところがわからないなら、わからないで読み飛ばしても大丈夫でした。そうした哲学や宗教の知識がなくてもわかるように書いてあります。
どうしてもわからないところもありましたけどね……。そこはもっと勉強しようと思います。
ともかく、仏教というものは唯一神を持たない分、自らをどうするのか、といったことを命題としたものだということは伝わってきます。宗教というよりは哲学に近いイメージだなと感じました。だから、心理療法にも通じる部分があるのでしょう。自分の心とどう向き合っていくのかというところを説いているわけですから。
ただ、その「どうするのか」の具体的な部分をどう説いているかというところを理解するのが難しいですけどね。とりあえず、この本はもう一回読みます。
『花宵道中』 宮木あや子
表紙のイラストの雰囲気に惹かれて借りてきました。気だるげにキセルを傾ける遊女の絵。
江戸末期の吉原を舞台にした連作短編集。主人公は入れ替わっていきますが、同じ時期の同じ小見世が舞台になっています。
結論からいいますが、非常に面白い本でした。遊郭が舞台なので、明るく楽しい本ではありません。むしろ悲しい話ばかりですが、悲しいとは思っても、哀れみがわかない、そういう話です。
遊女の矜恃や、切々とした恋心や生き方から、何か凛としたものが伝わってくるような感じがしました。
彼女たちの日常の振る舞いや言動は、むしろ気だるげで投げやりな描写なのに、全体を読み通すと一本通った芯を感じるのが不思議といえば不思議。
『エリカ』のときに、寂しい女の寂しい恋の話がもういいやとか言ってたのに、これが大丈夫だったのは、ちゃんと相手のいる恋を書いているからだと思います。
『エリカ』の恋は、その男が好きになったんじゃなくて、男に特別扱いされる状況に酔った恋でした。だからエリカは男に何度も「私を愛してる?」と聞く。本当に愛してるかどうかは問題じゃなくて、大げさに「愛してる」と言って欲しいだけで。「愛してる」と言うときに、特別だと思わせてくれる技巧を期待して何度も聞く。だから「愛してるよ」とあっさり返されるだけじゃ満足しないという、そういう恋。
でも『花宵道中』の恋はそうじゃない。朝霧には年季が明ければ引き取ってくれる人がいた。温かい手をもつその人の側では、仕事も忘れてぐっすり眠ることもできた。それなのに、行きずりともいえる相手との恋に朝霧は身を投げる。
やっぱり独りよがりより、悲しくても人との関わりをちゃんと書いた話の方が好きです。この辺は好みの問題ですけどね。
ところで、この本、最後まで読んで広告のページまでいきついてびっくりしました。
「女による女のためのR-18文学賞」作品募集のお知らせ より抜粋
(前略)……世にエッチな小説は数あれど、その95パーセントは男性による男性向けのものです。私たちが読んでも「女はぜーったいにそんな風には感じないの!」……(中略)……女性が読んでもナチュラルに感じられる、エロティックな小説……(後略)
え! そういう話だったの!?
確かに遊郭の話なので、濡れ場はありますし、その表現は濃密でしかもあけすけでもありましたけど、エッチな小説とかそういうくくりをされるとびっくりします。
その場面をなくしてしまったら、成り立たないといえば成り立たないけど、でもあくまで心を通わせる場面であってエロティックが主題じゃないと思う……っていうか、だからこそ女のための話なのかも。
濡れ場を単なる行為や快楽だけで書くんじゃなくて、あくまで心理描写主体っていうところが、男性向けのエッチ小説とは違うということなのかも?
少女漫画と少年漫画の違いとも通じるところかもしれませんね。
『般若心経の謎を解く』 三田誠広
作者は小説家で、仏教家ではありませんが、その小説家の立場から仏教をわかりやすく紹介するtという本。メインは般若心経なのですが、般若心経を理解しようと思えば、仏教の教義も理解しなければならないということで、仏教の成立した時代背景から、成立と伝播の流れ、上座部仏教と大乗仏教の教義の分裂なども解説しています。
何冊か読んできましたが、とりあえず一冊読んで仏教を知りたいというならば、読んだ中ではこれが一番いいように思います。扱っているのが般若心経なので、大乗仏教がメインで上座部仏教についての話は大乗仏教から見てどうなのかということが中心になってますけど、日本の仏教は大乗仏教の流れをくんでいるので、充分ではないかと思います。
仏教の説く、「空」「無私」「無分別」をつきつめて考えた後で、一番最後に作者が提示した作者自身の考えも、すっきりと身に入ってきました。
個人的にこの本を読んで良かったと思ったのは、釈迦と仏と菩薩と観音の関係が理解できたことです。
仏教で一番謎だったのがこの部分だったんです。キリスト教なら、唯一の神がいて、神の子キリストがいて、神の御使いがいてっていうのは門外漢から見てもわかりやすいんですけど、仏教世界はわけがわからなかった。仏教を起こした釈迦がいて、その釈迦を仏陀として尊崇してるかと思えば、釈迦より偉そうな大日如来とか阿弥陀如来がいて、さらには観音や菩薩も信仰を集めていて、その上仏教を護る神なんかもいて、それぞれの力関係とか位置関係とか成立の理由とか、その辺が全くわからなかったのです。
でも、この本で解決したので大満足。なるほどねーと思いました。
それから、能楽の般若の面と仏教の般若はまったく関係がないというのも初めて知りました。仏教の般若があの面の象徴する感情と関係しているんだとずっと思ってました。思い違いを正せて良かった。
さらに、仏教用語には、音をそのまま漢字で表したものと、意訳したものとが混ざっているというのも、改めて言われるまで気づきませんでした。般若波羅蜜多は音訳なので、漢字には全く意味がないそうです。仏教用語ってやたら漢字が難しいと思ったら、単に音訳だから難しくなっただけだなんて。意訳した仏教用語の漢字は難しくないんですよね。
難しい漢字が並んでいるからありがたい雰囲気を醸し出すお経の難しさが、実は「夜露死苦(よろしく)」と同じレベルのものだったなんて! そうだったのかー。
さて、この本は、作者が読者に語りかけるという文体を取っています。例えるなら、教室で仏教に関する授業をうけているというような雰囲気。話し言葉で、易しく話してくれています。
ただ、その授業のような雰囲気を、言葉遣いだけじゃなくて文章の展開にも持ってきているので、表現はけっこうくどいです。さっき説明したことをもう一回言い直したり、さらにもう一回違う言葉を使って説明したり、余談を挟んだり、少し前に説明したことをまた言い直したりしてます。
耳で聞いている授業だと、こうしたやり方は学生の注意を引くのに効果的なんですが、文章でやられるとちょっとくどい。
その辺のくどさが我慢できるなら、この本は確かに「誰もがわかる仏教入門」という副題通りの本だなと思います。
『一億人の人々が読もう 神道を知る本』 ご一家にしあわせを呼ぶ本
読もうってなんだ読もうって! タイトルがなんだかすごい神道入門書。企画しているのは「株式会社そうよう」ってなってるんですが、どういう会社なんだろうか。中味は神道の関係者が文章を寄せたり監修したりしているみたいです。
キリスト教や仏教と違って、開祖のいない信仰なので、神道を知るといっても、具体的な教義とか理屈の解説ということではありません。日本神話や、神道が大事にしている精神、神道の辿ってきた歴史などが書かれています。
目に見えないものに対する畏敬の念から、先祖を敬う気持ちにつながり、さらには今現在の自分を活(生)かしてくれている全てのものに対するつながりを大事にするということが、神道の基本なのだそうです。
手つかずの自然を神のすまうところとして敬った神道と、森を切り開き教会を建て人工の空間を作ることで自然を克服しようとしたキリスト教というような視点を使った神の社や鎮守の森についての考察や、神道の精神について色々な人が書いた文章の引用などが、興味を引かれた記事でした。
少年陰陽師『愁いの波に揺れ惑え』 結城光流
すでに妹は購入済みでした。
前巻で展開がだるいとか文句を言いました。この巻ではさらに展開が遅くなっています。が、それについて文句を言ったりしてはいけないようです。なんでも、この後、8月、10月と続きが連続で刊行されるのだとか。立て続けに本が出るので、その分、普段なら書けない脇キャラのセリフとかエピソードとか心情とかを敢えて切らずに書いてくださっているのかもしれません。ファンサービスとして。
この手の書き下ろし文庫って、一作出たら続きは半年とか一年後っていうことも普通なので、半年待ってこの程度しか話が進まないんじゃちょっと辛いなあと思ったのですが、そんなにすぐに続きが出るなら、早く出る分全ての事柄を丁寧に詳細に書くのもありなのかもしれません。
だるいとか言ってごめんなさい。
さて、前巻では、なんだか伊勢の方が大変なので、じいさまが伊勢に行かなければならなくなりました。さらには彰子ちゃんまで一緒に行かなければならないような事態になってさあ大変というところでした。
この巻では、彰子ちゃんと昌浩に伊勢に行かなければならなくなったという事情が告げられました。
以上。
本気でこれしか話は進んでません。びっくり。
地震とか謎の女とか地龍とか、色々出来事はあるんだけど、本筋に関わるとこはそれしかない。前巻で思わせぶりに出てきた今回の敵の情報も全然増えないし。
でもこれは作者さんの「この章ではキャラの心情を徹底的に掘り下げようと思っています」という意図の表れってことなんでしょう。この巻は話を進めるところじゃなくて、キャラの心情を書くための巻。
笑っていてほしいから守りたいという思いの中に、自分の側で笑っていて欲しいから自分が守りたいというエゴがあるということに気づき、さらに自分の力では守りきれないかもしれないということに、昌浩くんと彰子ちゃんは悩んでいます。二人とも、自分のせいで相手を殺しかけたという凄絶な負い目があるので、悩みも深くなる。そんな二人の悩みと、二人を見守る周囲のやるせなさが、じっくり書かれてます。まさに揺れ惑っているしかもそれだけの巻。
二人とも初恋だし、まだ若いからそりゃあ悩むよね。そんな年で凄まじい目にもたくさん遭っているので、色々考えてしまうよね。でも、正直なところ、もうそれこそぶっちゃけてしまうと、昌浩くんと彰子ちゃんが痛々しいので、もう悩んでいる描写はいいから、さっさと二人に開き直るきっかけを与えてあげて欲しいと思います。それで開き直った二人がラブラブになって少年陰陽師完で、もういい。
だって、二人の悩みってもう開き直る以外に解決法ってないじゃないですか。
回りにいい大人がたくさんいるんだから、早く二人に開き直っちゃえって言ってあげればいいと思います。
彰子ちゃんが左大臣家の姫だからどうこうって、ここまできたらもういいよね。
私ってほんとせっかちだなあ。
こんなにせっかちなのに、なんで読書なんかが趣味なんだろ。
5冊しか読んでないのに、感想が多くてずいぶん長くなってしまいました。
来週は多分、冊数も感想も減るはず。