『白蝶花』 宮木あや子
『花宵道中』で気に入った作者の本。前回は江戸時代の吉原が舞台でしたが、今回は大正から昭和初期(戦時中と終戦直後)が舞台。短編四本ですが、それぞれに少しずつつながりがあります。
舞台が遊郭ではないせいか、全体の調子や雰囲気は前作より柔らかくて明るめ。それでも、自分の生き方を自分の意志だけでは決められない時代の女性の話ではあるので、やりきれなさというのは残ります。
恋はほとんど寂しい結末に終わるのですが、それでも今回も気に入りました。
多分、女の子達が好みだからかなと思います。「いいこ」っていうのとは違うけど、でも素直で正直。わがままで意地っ張りなお嬢さまも出てくるのですが、そのわがままですら、純粋と潔癖の裏返し。
今思ったのですが、少女漫画っぽいのかもしれません。恋の始まりとその展開が少女漫画。少女漫画の雰囲気を小説で出したらこういう感じかなと。一番最後の雪割草なんて、結末までまさに少女漫画。
とはいえ、恋愛小説といえば語弊はあります。むしろ、女性の一代記といったほうが近いかと。恋も含めて女性の人生を追った連作。ある短編の主人公が別の短編に出てきたりするので、「ああ、あの人はこんなふうに生きたのか」という感慨も味わえました。
『風呂と日本人』 筒井功
そのものずばり、お風呂に関する研究まとめ。
今でこそ各家庭にお風呂があって、毎日入浴するのが当たり前みたいになっているけれど、そんなのはごくごく最近のこと。そのまえは銭湯に通うのが一般的だったし、さらに遡ればお風呂というのはお湯につかることじゃなかった。風呂とはサウナのような発汗浴をさし、お湯につかることは「湯」といい、両者は厳密に区別されていた。
では、いつから風呂と湯の混同が始まったのかとか、風呂はどういう形や方法をとったものだったのかというのを、風呂の遺構の調査、現地での聞き取り、文献や絵巻物の記載事項を重ねて考察されています。
ただ、入浴はあまりにも身近なことがらだったため、あえて記録する必要がなく、忘れ去られるのも早い。そのため調査の結果ほとんどは「わからない」か、「こうではないか」という推察に終わるのですが、それでも充分面白いものでした。
お風呂に関する知識よりも、研究というのがどういう手順で行われているのかがよくわかって、それが興味深かったですね。現在常識とされているような歴史の事実も、こういう地道な調査の積み重ねでわかったことであり、またそれが誤りである可能性も充分にあるんだということを、改めて認識できたので。
『高校生が感動した「論語」』 佐久協
感動した! 孔子に弟子入りしたい!
って思いました。孔子って結構いいこと言ってんじゃん(偉そうに言うな)。
作者は元高校の先生。授業で論語を扱うと、生徒達は興味を持ってくれるのだけど、いざ論語を読破しようとするとそのほとんどが挫折する。それなら、読みやすい形で提供しようじゃないかと編まれたのがこの本。
漢文を単純に口語訳するのではなく、孔子の立場で弟子に語りかけるという口調大切にし、その行間にあるものも大幅に付け足されているので、論語を全く知らなくても読みやすいものになっています。
常に孔子の教えをうけていた弟子なら、質問の答えを「それはこうだ」と一言で返しても納得するのかもしれませんが、そうじゃない現代人には前提となる知識がないのでさっぱりですからね。そのあたりをふまえた親切設計。章立ても、論語を頭から通読するのではなく、内容が似たものを並べてくれているので、同じ事が違った言葉で表現されているものを続けて読むことができ、それもわかりやすい理由の一つだと思います。
この本を読むと、孔子が弟子の一人一人を大事にみていた厳しいけれどあったかい先生だという印象が残り、それはそのまま作者の人柄なのでしょう。作者が先生として、生徒達に伝えたいことを論語を通して書いているからなんだろうなと。
もちろん、原文にはない言葉を大量に付け加えた訳は、作者なりの解釈によるわけですから、異論もあるかもしれませんが、入門書としては最適なのじゃないかと思います。読みやすいのが一番ですよね。
『レベル7』 宮部みゆき
記憶を無くした男女が記憶を探す話と、行方不明になった知り合いの高校生を探す主婦の話が並行で進み、やがてその二つが交差するという話。
レベル7というタイトルと、近未来の都市のような表紙のイラストから、SFなのかと思いましたが、舞台は普通に現代日本でした。まだ携帯電話がない時期ですけど。
さすが宮部さん。最後まで全然飽きませんでした。
『犬の保育園』 西川文二
絵本ではなく、犬のしつけ本です。
表紙の子犬たちがあまりに可愛かったのと、うちの犬の気持ちが知りたくて借りてみた。
しつけにかんして、飼い始めてからどうすればいいのか、その手順が具体的に書いてあるので、これから飼う人にはおすすめ。そして、その方法が結構大変なので、中途半端な覚悟で飼おうとしている人にもおすすめ。これができないなら飼うのをやめるか、犬に過大な期待をしないことだということがわかります。
お利口な犬が欲しいなら、飼い主がちゃんとしてやらないとダメだという当たり前のことを、人間はつい忘れてしまいますのでね。
うちのろっくんにも色々悪いことをしたなあと反省しました。そりゃあこういう犬になるわ。
『千年紀古事記伝』 鯨藤一郎
古事記を下敷きにした小説。
文体が普通の小説より単純なものになっているので、古事記の現代語訳っぽく見えて、古事記を知らない人はこれが本当の古事記だと思ってしまうかも?
私も本来の古事記を読んだことはなく、日本神話を細切れにしかもあやふやに知っているだけなので、どこまでが古事記に忠実でどこまでが作者の創作か、厳密にはわからない。
でも、草薙の剣が何故八俣大蛇の体から出てきたのかとか、ニニギの尊がコノハナノサクヤ姫だけを選んでイハナガ姫を追い返したのかといったあたりは、こちらの方が納得しやすいなあと思いました。
この本は、そのコノハナノサクヤ姫とイハナガ姫の話で終わっているのですが、日本神話で一番納得しづらいところは、やっぱり国譲りのあたりなので、そこまで書いてくれればいいのにと思いました。
が、やっぱりその辺りは色々と書きづらいのかも?
『手紙』 東野圭吾
両親を亡くし、助け合って暮らしてきた兄弟。金銭的な理由で弟を大学に行かせてやれそうにないことに悩んだ兄は、盗みをすることを選択する。ところが、盗みに入った家で家人にみつかり、はずみで相手を殺してしまい、兄は強盗殺人の罪で懲役15年の刑をうける。兄を失った弟は、一人で生きていかなければならなくなるが、強盗殺人を犯した兄を持って生きることは想像以上に辛いことだった。
という話で、物語は弟の人生を追います。兄とのつながりは獄中から届く手紙だけ。そのつながりをどう扱えばいいのか、弟は常に悩み苦しみます。自分のために罪を犯した兄を憎みたくはないけれど、兄が刑務所にいることで被った理不尽な仕打ちの数々は兄を憎むのに充分で。
作中、登場人物のセリフに、犯罪者の家族を差別するのは当然であり必要なことだというものが出てきます。罪を犯すというのはそういうことだと、みんなが思い知るためにと。
この主張をそのまま受け入れることができないのですが、ただ、思うことはあります。一度でも罪を犯せば、自分も家族も普通に生きることが難しくなるのだということが、罪に対する抑止力になるのだとすれば、人と人との関係が希薄になった今はその力がどれほどあるのかと。家族になど、いっそ迷惑をかけてやればいいのだと思う人にとってはどうなのかと。
家族が家族を殺したというニュースに驚かなくなったことが、今さらながら恐ろしいと思うのです。
『漢字を楽しむ』 阿辻哲次
最近テレビなんかでみかけるおもしろ漢字の覚え方とか、漢字のなりたちについての豆知識とかそういう本かなと思ったのですが、むしろ漢字についてのエッセイという雰囲気でした。作者は中国語学を専門とする大学教授なのですが、漢字を研究する人の立場で見ると、現在の漢字をとりまく環境はどううつるかというような。
やっぱり面白かったのは、漢字の書き取りについての章ですね。
以前「就」という漢字はどう書くのが正しいのかいうことをしつこくこのブログで書いたことがありましたが、そういうのがいかにくだらない拘りかということがよくわかりました。
字というのは情報伝達の手段なんだから、読めればいいんだと。土と工のように少しの違いが意味のちがいになってしまう字は厳格に区別するべきだが、木の縦の線をトメようがハネようが木は木としか読めないんだから、そんなことに目くじらたててテストするほうがおかしい。だいたい、採点する方の基準だって曖昧でいいかげんなものじゃないかと書かれたこの章は色々感慨がわきました。
小学生の時の先生がトメハネハライにうるさい先生だったので、私もそれに拘るようになってしまったのですが、そもそもの基準が怪しかったなんて、頭を殴られたようなショックですよ。
国が使っていい漢字を制限したり、活字を作るときはこの字体を使いなさいという基準を出したことで、それこそが唯一絶対の正しい漢字だという認識を広めてしまったのだそうです。常用漢字とか当用漢字体表というものがそれだそうです。
そして、そうした表には、これは活字であって手書きする分には必ずしもこのようにはならないという注意書きがあるのだとか。その例として、木の縦の画をハネたものとトメたものと両方が載っているのだそうです。確かにお習字だと、糸も縦をハネて書いたり、保険の保の木の部分をカタカナのホみたいに書いたりしますね。
活字と手書きを同じレベルでとらえるのが間違いだし、だから漢字テストで木をハネて書いたら×なんてとんでもないし、そうしたことも知らずに教育に携わるなんて、とんだ怠慢ではないかという批判的な論調で終始すすむこの章。
いやもうなんていうか、色々反省しました。
学校で習ったからとか、テレビで見たからとか、本で読んだからとか、人から聞いたからとか、そうした中途半端な知識を絶対のものとして信じ込み、時にはそれを振りかざしたりしていた自分が恥ずかしい。
論語で孔子も言っていました。まずは正しい知識を身につけること。そうして自分の頭で考えること。その両方が出来ていないと、ちゃんと学んだということにはならないと。
いきなり博学にはなれないので、せめて知ったかぶりはやめようと思いました。